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アマゾン日本人移民の町トメアス。

ブラジル移民第一回は1908年(明治41年)笠戸丸により開始した。ブラジルは1888年奴隷制度を廃止した為、農業労働者が不足し、日本からコーヒー農園の契約移民として791人が移民したのが始まりである。

1928年南米拓殖株式会社(南拓)がパラ州政府から103万ヘクタールの土地を譲り受け、移住南拓事業を開始。アマゾン移民は1929年アカラに南拓第1回移住者として43家族と単身青年8人の合計189人が入植した事から始まる。

1933年南拓社員の臼井牧之助氏がシンガポールからピメンタ・ド・ヘイノ(胡椒)の苗20本を持ち込み、内2本が活着し、1952年のピメンタ景気の元を作った。1935年この時期まで適作物も定まらず開拓者は困窮の極みに達し、植民地からの退出者が相次いだ時期でもある。又悪性マラリアも大流行し、多くの移住者の命を奪ったのもこの時期である。1935年南拓も植民地事業を断念し福原八郎社長が帰国した時期でもある。

1939年第二次世界大戦が勃発、ブラジルは1943年、ドイツ潜水艦によるブラジル輸送船撃沈を契機に、枢軸国に宣戦布告をした。パラ州政府は、日本人移民者を敵国人としてその財産を没収すると同時に、アマゾン全域の日本人をトメアスに収容した。この時から移民の町トメアスの始まりである。

僅か2本の苗木から始まったピメンタ栽培は1952年に大高騰し、植民地は黄金時代を迎え、トメアス産業組合(CAMTA)の組合員だけでもピメンタ植付本数44万本、年産800トンに達した。ピメンタ景気の始まりであり、1972年にはピメンタ生産が史上最高の5,000トンに達した。

その後病虫害の発生もあり、ピメンタ景気も上昇・下降を辿りながら今日に至っている。その間日本への出稼ぎなどでピメンタ栽培を止めた人も多い中で、一部歯を食い縛って頑張った人が、今ではピメンタ大農園を営んでいる。

最近ではピメンタ農園の中でカムカムを栽培する人もでてきている。カムカムはビタミンCを豊富(アセローラの倍)に含んだ果物であるが、まだ一般的に認知がなく栽培も少量であるが、今後注目を浴びる果実であろう。

ベレンより230km離れたトメアスへの交通はガマ河を渡すバウサ(フェリー)だけであったが、2002年橋が開通し、今では陸路でトメアスを訪問する事が出来る。

陸路ではかなり遠回りになる事もあり依然としてバウサを利用する車輌も多い。

トメアス発展の中心になった十字路も今では田舎としては近代化した街並となり、トメアス文化協会も十字路の片隅に毅然と建っている。

トメアス文化協会の内部に併設された移民資料館には、戦前からの移民の歴史を示す物・パネル等が展示されている。トメアスの歴史を知ることが出来る。

十字路から車で5分程度走るとトメアスカントリークラブがある。1989年に日系人の手で作られたベレン・カスタニアールに次ぐゴルフ場で、彼ら日系人の憩いの場になっている。

トメアス訪問時、田舎のレストランで昼食にムケッカと言う魚料理を食べたが、味わいがある。料理が出て来るまで焼いた肉を肴にビールを飲みながら待つのも乙なものである。

 

 

 

クョスコニョ    [1] 
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